大井川葛布とは

大井川葛布は静岡県の真ん中を流れる大井川のほとり、金谷町で作っています。(2005年合併で島田市になりました。)葛布では掛川が有名ですが、金谷は隣町ということもあり、早くから葛布を作っていました。
 昭和20年代からはじめたのですが、最初は
「静岡葛布(カップ)」という会社でした。現在では葛布業界では老舗に属するようになってしまいました。先代から葛布襖紙や葛布壁紙を60年余制作して来ました。
 葛布に新たな可能性を見いだすために1998年から「大井川葛布」と名付け、葛布の創作活動を始めています。

なぜ大井川葛布か

昭和40年代 掛川を中心にした葛布の産業は衰退をはじめます。
韓国が葛布の産業をまねし始めたこと、
それまでの輸出壁紙を生産するだけの原料が手に入らなくなった事、
人件費、物価の高騰、円高ドル安。
40数社あった葛布製造元が半減します。
そのなかで生き残りを掛けた何社かが、いわゆる「民芸葛布」に活路を見出します。葛布の掛け軸、色紙かけ、葛布の暖簾、財布、ハンドバックなど付加価値を付けて販売できる物を開発します。その試みは半場、成功し、現在では掛川に3社の葛布製造元が現存しています。(現在は2社)
 40数社あった葛布製造元が10社以下に落ち来んできているなかで、当社は葛布以外の天然繊維壁紙を創る事で切り抜けてきました。
(紙布、葭、乾草、芭蕉布=マニラ麻、シケシルク、ビスタ、皮麻、
大麻、ジュート麻、サイザル麻など)
が、それも80年代になって、衰退し、葛布のみが残るようになりました。
 その当時「素朴」「侘び寂び」などという言葉が葛布に冠されました。でも私はなにか違うと感じていました。
葛が持っている光沢は「素朴」ではなくむしろ「きらびやか」
「侘び寂び」ではなく「雅」ではなかろうか?
 その感覚を裏付けるために葛布の歴史から紐解きました。
その結果、葛布は庶民の衣服よりむしろ貴族の衣装として用いられていた事がわかりました。
 いわゆる「民芸葛布」とは違う葛布を創ってみたい。
昔使われていた衣裳のように 身にまとうものに 葛布を生かしたい。そんな想いが 新しいブランド名「大井川葛布」を創りました。
 苦労して生き延びてきた 同業他社の製品のまねをしたくない。
同じ物を作って狭い世界で争っても意味がないとも思っています。
たとえ同じような製品があったとしても、コンセプトの違いが明らかなものにしていきたいと思っています。
 もう一つ、天然繊維の葛布に化学合成的なものを一切使いたくないという想いもありました。化学合成染料、化学合成繊維にも意味があるでしょうが、「葛」がそれを求めていないとの確信があります。
ましてや、人がまとう物を作ろうとする時、身体に害があってはならないと思っています。
 そして、過去世界の人々が葛布を絶賛した事実を忘れてはならないと思っています。葛布の壁紙は世界のVIPの住宅を飾ってきました。
 もう一度、葛布を世界に問うてみたいと思っています。


コンセプトの違い それが大井川葛布です。

民芸について

このうえの文章で 「民芸葛布」と違うものを作りたいといっていますが、民芸を否定しているのではありません。私自体、遠州民芸協会の会員ですし、民芸の思想には深く共感しているのであります。ましてや、制作にたいしては 柳宗悦先生の思想をよりどころにしているのであります。
 しかし巷では「民芸」と言う言葉が一人歩きしまして、土産物屋が民芸を標榜したり、民芸酒場なるものもできてきたりしています。土臭いもの、洗練されていないものが民芸かと勘違いされています。
 試しに日本民芸館の展示をご覧ください。もちろん 民家に貼ってあるような粗末な民画もありますが
王宮にあってもおかしくない豪華な陶器もたくさんあります。柳宗悦先生は 祖末、豪華という判断ではなくその中に在る「美」に感応した方だと思います。そしてその「美」の多くが名もない民衆が作ったものだと気づいたのです。彼らにこそ 「美」に近づくことができる秘密を握っていたのでした。
 詳しくは、柳宗悦氏の著書「美の法門」をお読みください。
私は「美」については 私たちの作る葛布も「民芸」でありたいと思っています。ましてや美大を出ている訳もない私たちが作る葛布はただただ、自然の恵みに感謝して それを布に表す行為でありたいと思っています。山川草木国土悉皆成仏 繊維に宿る仏を表現できたとき それはまさに「民芸」にほかならないではないかと思っています。
 民芸からはなれて行くように見える 大井川葛布ですが 実はだんだん近づいていきたいとおもっているのです。

織物における民芸の中級品とは